文脈位相の日乗

如何様にも流れてゆく日々を貼り付けて標本にしようと思ったのに。

好意そして行為

今週のお題「あの人へラブレター」

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人を好きになることと人に好意を伝えること。この二つがつながらないまま大人になっていた。私が何を考えようと、それは誰かにとって関係ない話だと。あるいは誰かに私の思うことを伝えるのはどちらかにとって脅威になり得ることなのだと(それは大抵自分にとって、なのだが)。そんな風に考えるようになっていた。それはそれ、これはこれ、と分類するのが早かったのかどうなのかは未だよく理解できていない。

そも、人を好きになること自体、どこか理解していなかった。そうも思い返される。クラスの人気者を好きになる。そういうものらしい。そういうものだそうだ。なら追従しておこう。そんな感じの子供だった、ような。

だから、自分でコントロールできない恋なりしものに驚いたのだと思う。大学生になった。授業中にちょっと距離が近づいた瞬間、不幸な事故にでも遭ったみたいに自覚した衝撃に、あんまり理不尽なそれに、感動すらしたのを覚えている。初恋だっただろう。さりとて見目がよいわけでもないだろう先生が相手だった。特に接点はないような、よその学部の。

プリントを渡される1,2秒で意味不明に落ちた恋への感想は、日記を見る限り「理不尽」とのことだった。

そんな風にして始まった恋に、併して動きは伴うこともない。それはそれ、これはこれ、である。たとえ、それはそれ、これもそれ、と思うたにせよ、色々違い過ぎるしハードルも高すぎるので、どちらにせよ動きは伴わなかっただろう。授業がなければ顔を合わせる理由もなし。雷に打たれたんだ、不幸な事故だったんだよ。それで終わる話だったのかもしれなかった。

が、そこから先は我ながらよくわからない。たまたまなのか無自覚になのか、読んだ本がその先生の研究分野と少し近かった。幾つか浮かんだ疑問を片手に学科のワーキングルームにいた。

例の先生の研究室はワーキングルームのすぐ近くにあった。見かけてしまった。それは良い。なぜ話しかけたのか。廊下での立ち話、今度は僕がいつもいる実験室においでよ。はい是非伺わせていただきます、ありがとうございました。

なんでさ、と頭を抱えたのは大学一年の夏。人を好きになることと人に好意を伝えること。この二つはつながらないまま、内部完結と領域の住分がなされたままであった。完結した内部では殆ど未知の感情がぐずぐず腐って、けれど憧れから光り輝いて、妙な発酵が続いていた。もちろん、それに表面的な行動がつきうごかされることはない。ただ、勝手に自分で消化不良を起こしているだけだ。今、学部二年生へと時を移しても発酵消化不良は変わらず続いている。実験室へ時々遊びに行き(私のいる大学は学生と教員の距離が良い具合に近いのだ)、一人二人、他の先生方も交えた談話会のようなものになる。そんな程度には存在を認識されている。

できるならば、今のまま知的好奇心を存分に発揮した楽しい時間が卒業まで続けばよいなと思う。それ以上のロマンスは求めていない。そんなものより私は勉強しなければならないし、そう私が考えている間も先生は自分の研究のことを考えている。だからこそ美しいのだと思う。いっそ自分の抱いた恋慕は滓のような不純物で、それがなければもっとよいのに、とも。

だからこそ、きっと卒業してもラブレターは渡さないし、渡せない。純粋できれいな道に塵を投げ込むくらいならば、その腕切り捨ててクリアで身軽な状態でいたいと願う。

けれどもし、ラブレターを渡すならば、それはきっとこんな風。私は先生の話がとても好きだった。先生の話は私の知的好奇心をめいっぱい刺激してくれて、最高に面白かった。

こんな内容なら、渡さないほうが何万倍もマシだな、と思う。クリアではない、私はそれを結果として表すのが一番。もっともっと勉強したいことがたくさんあるんだ。


という話を友人にして、あまり理解されなかった、今日の夜。
(2018-05-21)

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言葉に慣れる必要があったので、何かしら書き連ねていきます。というブログ始めました宣言とブログ解説の理由説明。

現在進行形の好意を自覚するのは結構辛いものがある。

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はてなブログのエディタが他所と違うのか、これまでの癖そのままで書くと酷く見辛いように感じられる。書き方を変えるか、Markdownを使うか、スマホのキーボードの設定を変えるか。(PCで大まかに記事を書き、スマホで手直し&投稿をしている)