文脈位相の日乗

如何様にも流れてゆく日々を貼り付けて標本にしようと思ったのに。

美しい夏が待ち遠しい!

タイトル詐欺。

気持ちがぐちゃぐちゃで希死念慮がハイパワーV8な感じのままこれを書いてる。パソコンを立ち上げる元気がないので、スマホで。

もともとメンタルヘルスが弱いというか生きづらさを持って生まれ生きてきた。大学生になったときも同じように生きづらく、死にたくて、それなのに半端に希望を持っていた。
ただ、そうした生きづらさや苦しさを隠すのは(表面上は)うまかった。助けてくれとも言わず、元気に見える姿だけを表面に貼り付け、できること手伝えることならなんでも言ってねとそこそこ人間関係をうまく回してきた。

限界だった。半分療養中で、しかも残った半分は医者に難色示されながら元気なふりをしてるだけの患者だった。
勉強、というか考えることも読むことも書くことも好きだったので構成か教員がアレでない限り授業は楽しいし他所の大学(まあまあ名の知られた頭のいい宇宙人が集まってるようなところ)に行って研究会へ参加したり、学内でもいろんな先生に知的なインスパイアを受けたりしていた。薬で作った「元気なわたし」を貼り付けた泥人形が、そんなことをしていた。私はそれを胡乱な目で見つめる。

たまたまサークルでお世話になってる方に「いやー実は今しんどいんですわ医者にも『てめー余計なことすんなとにかく療養しろ』って言われてて。はは」なんて言ったのは、やっぱりしんどいからだった。内心、頼むから助けてくれ、と思いながらの、糖衣の叫びだった。

「でもユーキさん元気に見えますよ! それに普通に生活して動けてますし!」
そらあ、そうだわ。そうか。元気に見えるか。
動けてねぇわ。薬で動いてるんだわ。カフェイン増し増し(メンタル系の薬で治療してる以上よくはないと知ってはいる。知っては)、気力はなくても人類愛で苦しさを包んで元気なふりしてるんだわ。
そうか、元気じゃないって言わなきゃ分からないし、言ったら顰蹙買いかねないけど、言ったところで分かってもらえないのか。

俺が悪いんだな。

どんなにしんどくても勉強するのは楽しかったし、文学の世界には俺と似たような世界の見え方をする人がいると思ってた。その2つだけが生きる希望になっていた。希望だと思うだけの体力があった。
なんか、今は、無理だ。
きっとなんやかんやと泣きながら生きていくんだろうけれど、これまでみたいに前や上を向く力が、湧いてこない。
プロレタリア文学を読んで、太宰のフツカヨイ的な作品を読んで、晩年の芥川の作品を読んで。ああ、わかるよ。でもやっぱり分からねぇわ。

怒りでもなく、悲しみでもなく、脱力感と「俺が悪いんだな」という気付き。
悪いのは私だから、サークルの仕事を回されても仕方がない。授業に響いても仕方がない。授業を休んだ知人に時間を取られても、それは私が悪いんだろう。みんなは事情があった。私より授業が忙しいのだろう。授業よりバイトを優先しなきゃいけないだけの事情があったのだろう。

これがわたしの罪なんだ。

だったらいったいなんなんだ。

それでも夏までは生きようと思う。
夏休みまでなんとか生きて、夏休みにひっそり死のうと思う。水辺が好きだった。故郷の滝か、河が、森が好きだった。帰れないな、と思う。ふるさとに帰るだけの、金も元気も余裕もない。
それでも夏までは生きようと思う。夏になったら、暑くてかわいた日差しと蝉の鳴き声をさんさんと浴びながら死のう。それが俺の希望だ。
夏はもっとも美しい季節だと思う。一番色が鮮やかで、命がいちばん艶やかになる。
美しい夏が待ち遠しい!

余談。
あまりにも心が死んでいるのでちまちまと自分で書いた文章をフランス語に訳したりして気を紛らわせる。
フランス語もよいが、日本語にも美しさがある。ロマン的な詠嘆は、日本語表現のほうが(今の自分の実力では)軍配が上がるのではないか、なんて。

余談その二。
精神的に不調なときは嗅覚に幻覚症状が現れる。いわゆる幻臭というやつか。
視覚聴覚での幻覚症状はよく聞くけれど、鼻に来るのはあまり聞かないような気がする。
嗅覚は生存にさほど関わらなかったりするのだろうか。いやでも腐ったものとか悪くなったもの、鼻でわからないと大変だよな…。

過程を仮定して行動しよう

忙しい。あるいは、気忙しい。

つい、保身のため嘘をついてしまう。自分の利益しか見ずに、理想を追いやってしまう。形而上の目標だけで人は生きていかれないにしても、大切なものくらいは持っていたい。どうせ懐からは、色々なものが勝手に抜けてゆくのだから。
ろくでなしではあっても、ひとでなしにはならないよう気をつけたい。

できるかぎり、正直でいよう。精一杯には、私なりの精一杯を返そう。不義には、それなりに憤ろう。怒るときは、見苦しくないよう静かにしよう。
格好良く生きていたいものだな、と思う。抜け目ないとかそういうのではなく、なにか一本通ったような、そんな生き方をしたいものだ。どうせ生きづらい神経に生まれたのならば、貫き通してやってしまいたい。

久々に楽しい読書をしたので、神経がシャンとしたように感じられる。勉強ならざる読書、さながら砂漠で飲む水の如し。
苦しいことも過ちも、しっかり受け止めよう、と座る腹。生きるも八卦、死ぬるも八卦。必死に生きてこそ、活きる言葉があるだろう。

このまま、余計なものは、捨ててしまいたいのだけれど。そうなると、修道女のような生き方をしなければならないような。いや、昨年の今頃は、まさしくそんなところだったのだけれど。
娯楽も息抜きもなかったが、何かを極め追い求めようという楽しさだけはあったかなと思い返される。

決して、神経が安定しているわけではない。黙っていると、吐き気、熱、発汗、胃痛。具合の悪さ、山盛りである。
ただ、一人、ほんとうに心地よい雰囲気の知人があって、その人と時間を過ごしたこと。楽しい読書をして、作者から心地よい時間をもらったこと。その2つのおかげで、平然と構えていられる。
人とのよいつながりは、正直、精神安定剤より強い。デンマークのヒュッゲという言葉の意味が、少し感じられる。

明日、清水の舞台から飛び降りる。もしくは華厳の滝か。
もしこの記事を見た人があれば、明日の昼、ほんの少しで良いから私の抱える事情がうまく導かれるよう祈ってほしいな、と思う。
何がどうなればうまいのか、本人もわかっていない。神頼み、仏頼み、人頼み。 ただ、人の祈り(もしくは確かな意志と言うべきか)というのは、結構強いものだと知っている。
こと、誰かのための思いは、特に。

ある種の自己紹介と目標設定

とりあえずブログの方針というか方向性くらいは固めておくべきかなと思って。

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そもそもブログは他所でも細々と続けているものが一つ二つあって、そのうえで何故あたらしくブログを作ろうと思ったのか、ということ。

私はインターネット上で自分が何者かを語らねばらない場所(ex,ツイッターのbio)では、オタク、と無条件に書くようにしていた。アニメだとかゲームについてぐだぐだと書き散らすことはままあり、リアルでもそうした二次元的な話題を少なからず日常会話に挙げていた。周囲に二次元好きが少なかったからなのか、そんな私は往々にして「あ、こいつオタクじゃん」とラベリングされてきた。ような気がする。

別にそれをどうと思ってきたわけではないが(オタク叩き文化の薄い非オタ社会に生きていました)、そのラベルに別段違和感を感じてこなかったので、ああ、俺はオタクなんだな、と自分でも自分にオタクのラベルを付けてリアル社会インターネット社会を流されてきました。

ただ最近は「私はそれほどオタクでもないな」だってオタクと呼ばれるほど一つの事物に対して鋭角なパラメータが振られていないし自分自身鋭角に向かっていく気があんまりなくなってきたな、という理由から「自分にオタクの商品タグを張るのは詐欺だな」と考えています。

では私はいったい何を持っていてどんな自己紹介をしたら偽りないのか、というと、多分『一般人』くらいのものだと思う。 なんとなく自分を適当に振舞うことで狭い学校コミュニティを生きて、そこから大幅にまた早々にドロップアウトして、文学の持つ(と感じた)「生き辛さの表現」に共感し、微妙にあった基礎パラメータの尖りが面白いという評価を受けて何となく大学まで上がってしまった、一般人。
素のパラメータだけはレアジョブなので能力値はそこそこ尖っている。人生序盤の現在まではその使いづらさが一部にウケたのでここまで生きてこれてしまった、低レベルのキャラクター。
地道に育成されてきたノーマルジョブに、クリティカルと不意打ちで時間を稼ぎ戦線離脱することでしか生き残れない育成間違えちゃったキャラ。

そんな感じの大学生です。

ようやく「ちょっとレベル上げないと駄目なやつだな」と気が付いたのでレベル上げのためにブログを開設したはいいけれど、冒頭。具体的にどう能力値を上げスキルを伸ばすか、考えてなかった。

たぶん、自分はこれまで語ってきたオタクのジョブではない。レベル上げはしてなかったけど、スキルの振り方が微妙にオタクから外れている。「好きだから何かをする」という感情はなくて、(きっと精神的な意味で、自己評価として)生き残るための数値伸ばしをするために色々な作品に向かおうとしている。

好きだから、が原動力にない以上、オタクを自称するのは(楽しんでオタ活している友人に対して)憚られる。オタクは楽しくてやるもの、と思うし、よく言われている気がする。

(ここで思うのが、今向かっている、いわゆる推しの作品やキャラクターに「好き」の感情は本当にないのか?ということ。いや多分ある。根底はそこにあるはずなんだろうけれど、考え方の面倒くささが先に立ってしまって「好き」を塗りつぶしてしまっている。
考え方の面倒くささというのは、具体的には「俺は俺の置かれた場所から、お前の生き方に同意/否定しなければならない」みたいなものだと思う。常に何かを思い悩まなければだめ、みたいな縛りが出来ている。
お前の世界の見え方は少数派だ、故にその見え方で世界を記述しなければならない、と呪を掛けられ続けた結果こうなった。し、思想家にでもなるのか?)

ここでいう思想家、というのは、何かしらの事物に対して過去の思想をもとに論拠を練り壊れた蓄音機的に歌い続けるエンタメ、くらいのニュアンス。私はデカルトカントマルクスショーペンハウアーetcのような本気で考え続けそれで飯を食っていくだけの頭脳はない。ネットもしくはリアルの局地において若干「こいつの言うことを同意はともかく見ておこうか」くらいに思われる暇つぶし的存在を誇張して思想家、と言っています。誇張しています。







(呪を掛けてくれた人は、きっと私が「思想家に隣接するなにがしかの存在になったらおもしろいな」くらいのことは考えていたと思う。でも呪を掛けた自覚はないだろうし、単純に私が深読みしすぎて捉えていたのだと思う。だから、その人たちを特別に悪しく/好ましく感じてはいない)

私がオタクでないとして、残るものは何だろうか。メンタルヘルスの悪い人、だろうか。恒常的にメンタルの具合は悪いし(躁的な状態でない限り)、ここは残してもよい気がする。
あとは「親和性はあるけれど、特筆するほど尖ってない能力」くらいの好物がちらほら、あるかなと。

それはともかく、華の大学生がメンタルヘルス悪い状態で、それをあえて形に残しまくっていく、というのはエンタメとして悪くないのではないか。小学生のころによくやった、小石を蹴って家路に帰るアレ。あの遊びで石が削れていく様を面白いなと思うくらいには、何か暇つぶしになったりしないものか。
そのついでに、のちに自分の後輩になるくらいの人、その中でちょっと疲れ気味の人がスマホで『大学生 メンヘラ』とかググったとき「こんなんもいたんだな、まあそんなもんだよな」とかちょっとの仲間意識を覚えてくれたり、しないかな、と。

そういう、自分の人生が少しは暇つぶしのエンタメ素材にならないかな、という感情がこのブログの趣旨になる。なった。おそらくまたすぐに変わる。

そういう精神的な部分を除けば、なるべくたくさん書くことで自分なりの文体を得られないかな、という魂胆もあるのだけれど、どうだろう。
ユーキちゃんは比喩がいいよね、と雑談中に言ってくれた友人に、もうちょっとレベルアップした比喩をお届けできるかしらん。 少なくとも書いていなかった時期に衰えた部分を視覚化することはできているので、表現力向上の面で「可」くらいスタンプ押してもいいだろうか。不可、だとちょっと悲しい。

今年の目標としては、詩歌を作れるようになること、小説が書けるようになること。この二つが目標。
言葉は人を殺す。けど人を生かしもする。私なりに誰かに届けられるものを、獲得したいのだろう。

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勢いで書いてるのにロクな推敲をしないのはよろしくないなと反省。次から頑張ろう…まだ見てる人はほぼいないから…。

好意そして行為

今週のお題「あの人へラブレター」

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人を好きになることと人に好意を伝えること。この二つがつながらないまま大人になっていた。私が何を考えようと、それは誰かにとって関係ない話だと。あるいは誰かに私の思うことを伝えるのはどちらかにとって脅威になり得ることなのだと(それは大抵自分にとって、なのだが)。そんな風に考えるようになっていた。それはそれ、これはこれ、と分類するのが早かったのかどうなのかは未だよく理解できていない。

そも、人を好きになること自体、どこか理解していなかった。そうも思い返される。クラスの人気者を好きになる。そういうものらしい。そういうものだそうだ。なら追従しておこう。そんな感じの子供だった、ような。

だから、自分でコントロールできない恋なりしものに驚いたのだと思う。大学生になった。授業中にちょっと距離が近づいた瞬間、不幸な事故にでも遭ったみたいに自覚した衝撃に、あんまり理不尽なそれに、感動すらしたのを覚えている。初恋だっただろう。さりとて見目がよいわけでもないだろう先生が相手だった。特に接点はないような、よその学部の。

プリントを渡される1,2秒で意味不明に落ちた恋への感想は、日記を見る限り「理不尽」とのことだった。

そんな風にして始まった恋に、併して動きは伴うこともない。それはそれ、これはこれ、である。たとえ、それはそれ、これもそれ、と思うたにせよ、色々違い過ぎるしハードルも高すぎるので、どちらにせよ動きは伴わなかっただろう。授業がなければ顔を合わせる理由もなし。雷に打たれたんだ、不幸な事故だったんだよ。それで終わる話だったのかもしれなかった。

が、そこから先は我ながらよくわからない。たまたまなのか無自覚になのか、読んだ本がその先生の研究分野と少し近かった。幾つか浮かんだ疑問を片手に学科のワーキングルームにいた。

例の先生の研究室はワーキングルームのすぐ近くにあった。見かけてしまった。それは良い。なぜ話しかけたのか。廊下での立ち話、今度は僕がいつもいる実験室においでよ。はい是非伺わせていただきます、ありがとうございました。

なんでさ、と頭を抱えたのは大学一年の夏。人を好きになることと人に好意を伝えること。この二つはつながらないまま、内部完結と領域の住分がなされたままであった。完結した内部では殆ど未知の感情がぐずぐず腐って、けれど憧れから光り輝いて、妙な発酵が続いていた。もちろん、それに表面的な行動がつきうごかされることはない。ただ、勝手に自分で消化不良を起こしているだけだ。今、学部二年生へと時を移しても発酵消化不良は変わらず続いている。実験室へ時々遊びに行き(私のいる大学は学生と教員の距離が良い具合に近いのだ)、一人二人、他の先生方も交えた談話会のようなものになる。そんな程度には存在を認識されている。

できるならば、今のまま知的好奇心を存分に発揮した楽しい時間が卒業まで続けばよいなと思う。それ以上のロマンスは求めていない。そんなものより私は勉強しなければならないし、そう私が考えている間も先生は自分の研究のことを考えている。だからこそ美しいのだと思う。いっそ自分の抱いた恋慕は滓のような不純物で、それがなければもっとよいのに、とも。

だからこそ、きっと卒業してもラブレターは渡さないし、渡せない。純粋できれいな道に塵を投げ込むくらいならば、その腕切り捨ててクリアで身軽な状態でいたいと願う。

けれどもし、ラブレターを渡すならば、それはきっとこんな風。私は先生の話がとても好きだった。先生の話は私の知的好奇心をめいっぱい刺激してくれて、最高に面白かった。

こんな内容なら、渡さないほうが何万倍もマシだな、と思う。クリアではない、私はそれを結果として表すのが一番。もっともっと勉強したいことがたくさんあるんだ。


という話を友人にして、あまり理解されなかった、今日の夜。
(2018-05-21)

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言葉に慣れる必要があったので、何かしら書き連ねていきます。というブログ始めました宣言とブログ解説の理由説明。

現在進行形の好意を自覚するのは結構辛いものがある。

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はてなブログのエディタが他所と違うのか、これまでの癖そのままで書くと酷く見辛いように感じられる。書き方を変えるか、Markdownを使うか、スマホのキーボードの設定を変えるか。(PCで大まかに記事を書き、スマホで手直し&投稿をしている)